学問は天与の才を発揮すること 安岡正篤 天地にかなう人間の生き方より

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学問は天与の才を発揮すること

学問というものは、自分が天から、親から、自然に与えられておるものを発揮することである。

だから、どうしても実際生活にそれを実践すべく努力するわけで、
そうなると自ら「一誠万事」「一心万変に応ず」で、だんだん惑いがなくなる。

キリスト教界でも特異な存在として、ヨーロッパでも、アメリカでも、
誰れ知らぬ者のないジプシー・スミスという大説教家があります。

この人はもともと乞食少年であったが、十三歳の時に『聖書』を読み、
発憤してああいう偉大な説教者になった。

また、アメリカで特に有名なジェレミー・マコーレーという人がある。

前科二十四犯という大泥棒であるが、大宗教家となって、
ニューヨークの貧民窟で無頼漢専門に教化をいたしました。

ニューヨークあたりの貧民窟の無頼漢などというものは、
なかなか生やさしい人間では説教できないのでありますが、
このマコーレーが説教すると、そういう連中も涙を流して聞き入ったという。

人の力・人格の力、学の力・教の力というものはそれくらい大きいのであります。

この学を別の面から言うと、教うるという意味になる。

天地にかなう人間の生き方より

自分の天与の才を活かしきるというのは、人間の責務だと思う。

前の代では叶わなかったことを、自分の代で努力して成功させる。

こうして遺伝子は進化してきたのではないだろうか。

その為には良い教師との出会いが必要であるし、
本人の才に対する自覚と努力も必要だ。

物事の興味というのは、
出鱈目に何でも挑戦すれば分かる人もいるだろうが、
一つの興味から派生して関心が広まり、
自分の才に気が付くことがある。

そこには無理が無く、統一感がある。

例えば、歴史が好き→歴史上の人物が好き→其の土地について関心が湧く→関連する本を読んだ →其の土地についての知識も得る→過去から現在までの土地の推移を階層的に理解できた →街おこしに役立てられないか→ボランティアを興して街おこしに協力した

と言うように、歴史が好き~ボランティアで街おこしまで才の発掘は進んで行く。

教師と生徒の相性は大切だと思う。

苦労知らずの人間だけを相手に教師をしている内は、
知識だけの人でも勤まるだろう。

しかし、世間で苦労を積んだ人間を教えようとなると、一筋縄では行かない。

教師を超える普遍性や法則を体得しており、
知識の証明を求めてくる可能性が有るからである。

また、正しくないにせよ、一つの真理のある答えを既に持っている場合があるからだ。

その為には、それ相応の人生経験を積んだ人間が、
自分の力でまっとうな道に復帰する段階で
苦悩し導き出した経験に基づく体験談を交えて教えなくては相手は納得してくれない。

そして、教師が教師として教えている内は駄目だと思う。

学びを深めると、生徒の「解らない」を分からなくなってしまいがちで、
「こんなことは常識」と、ひよっこの生徒にまで押しつける教師が私の知っている教師にも居た。

我ながら毒のある子供だったので「あれは三流だ」なんて思っていた。(笑)

「何が解らない」の視点を生徒と同じ視線で見る事ができ、
生徒の知識の範疇で解るような説明をできれば、
相手を本当の意味で理解させることが出来る。

しかし、日本の教育は平均的な人間を作る教育なので、
30%の理解の子供と、90%の理解の子供が 同じ教室で学んで居る。

ましてや教師の努力が足らずに生徒の理解が浅ければ目も当てられない。

プロであれば、次の日に教える項のページを入念に読み込む位の初心を持ち続けて欲しい…。

学校で先生が、昨日の続きとはまるで違うページから授業を始めたりすることがあったが、
あんなのは怠惰と惰性以外の何者でもない。

緊張感と真剣さが足りないのだ。

教師にとっては何千回の授業の一回でも、生徒にとっては一生の内の一回の授業なのだ。

それを疎かにしたら、其の子供達は不幸である。

2010-07-02の記事を再掲載

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