節義 安岡正篤 安岡正篤一日一言より

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節義

「為さざるあるなり、而して後、以て為すあるべし」(『孟子』離婁章句下)
世の中がどうなっておろうが自分はこういうことはしないんだというのが、
「為さざるあるなり」である。
これは理性と意思の力によって初めてできる。
つまり、だらしのない人間の欲望や興味にまかせる生活に一つの締めくくりを与える、
節をつけることである。
それで初めて人間に「道」というものが立つ、これを義という。
これを結んで「節義」と言います。

安岡正篤一日一言

世の中の価値観は変化するのが当然である。

其の様にして文明は進化する反面で堕落もしていく。

「口に出さなくとも共通の認識であったこと」が、時代遅れとなり、非常識となっていく。

しかし、心ある人間はそれを忘れずに守り通そうとする。

必殺仕事人の中村主水も言っている。
「俺達は、正義や世の為に人を殺しているんじゃねぇんだ。
やっていることは薄汚ねぇ殺しなんだよ。
それを忘れちまったら、人間じゃなくなる。」と。

戦争の英雄として、自らを誇るのは似たようなものであろう。

人を殺すことで自己の存在を評価されることに恥を感じなくなった時には、
その人間は武人としても墜ちるところまで墜ちたといえよう。

「仕方なかったにせよ、俺は所詮人殺しの手伝いをしただけだ」という自嘲が、
その人間を「人間」たらしめていると言えよう。

しかし、この価値観を、当事者達は語ろうとはしない。
それは節義の変化と言える。

人間は、自然や弱者に対して横柄な生き物だと思う。

それが拡大して、モンスターペアレント、いじめ、環境破壊の原因になっている気がする。

自然に対して、日本の神道のような気持ちを以てすれば、環境破壊は愚かだと直ぐに気が付こう。

仏の教えを以て、欲望の愚かさを学べば、足を知ることを覚えよう。

キリストの教えを以て人を哀れむ気持ちを持てれば、モンスターペアレント、いじめは減るのではないか。

しかし、言われる前に自分の心(良知)で、
それを判断できるのが本来であり、節義である。

その節義を取り戻す為に、世にある「教え」を学ぶべきではないか。

宗派は問わない。
自分に足らぬ物を、それぞれ多方面から学ぶ事は大切だと思う。

2010-07-01の記事を再掲載

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