幸と福 安岡正篤 安岡正篤一日一言より

幸と福
「さいわい」にも幸と福と二字ある。
学問的にいうと、「幸」というのは幸いの原因が自分の中にない、偶然的な、他より与えられたにすぎない幸いを幸という。
たまたまいい家庭に生まれたとか、思いがけがなくうまいめぐり合わせにぶつかったとかいう、これは幸。これは当てにならない。
そうではなくて原因を自己の中に有する、即ち自分の苦心、自分の努力によってかち得たる幸いを「福」という。福という字がそれをよくあらわしておる。
示偏というのは、神さまのことだ。
示というんは上から光がさしている、神の光、叡智の光を表す。
旁は「収穫を積み重ねた」という文字だ。
農家でいうならば俵を積み上げるという文字。
神の前に蓄積されたるものが「福」である。
安岡正篤一日一言より
「幸福」と同じように捉えられがちな字の意味に、
これだけの差があるとは知らなかった。
後者の二字は、努力や蓄積によるものという、
人間の忍耐によってのみ可能となる事。
つまり、誰に遠慮することなく、
ほどほどにその福にあやかっても良い幸運なのだ。
しかし、幸に甘んずると、
幸運を全て失ってしまう可能性もはらんでいる。
遠慮しつつ、利用するべきは利用し、
全てを私のものとしないことで、守られる。
そこが、幸と福の意味の根本的違いだと私は思った。
たった一つの単語と漢字から、そこまでの真理を突く。
私淑するには高邁なる人物と、
また改めて敬意に値する人物だと、
安岡正篤先生に思いを募らせた。
恐らく、安岡先生自身の後者の「福」の積み重ねが、
こうして後進の私を導いてくれているのだ。
継続して、私も福に到る日まで努力を惜しまずにいかねばならない。
2009-10-30 の記事を再掲載
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