二つの手紙 安岡正篤 照心語録より

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二つの手紙

細井平洲の上杉鷹山に宛てた手紙の中に、
学者を語って面白い一文がある。

「世の中に払底なる(底を払って空しい)者と申し候は、
学術志行兼備と申す人に御座候。
何れの国にも学者は学者風にて、
書に対し候時は学者に御座候。
人に対し候時は世人に御座候」と。

書に対する時だけで、他の時は俗人というのでは、
ひとを感化・指導することなど思いもよらぬ。

 平洲はよく”生え抜きの人間”ということを説く。

折角人間に生まれながら、
多くは成長するにつれて退化・歪曲・分裂して、
却って非人間的な方へ逸れてゆく。

しかし我々は成長すればするほど大木が一貫して伸びゆくように、
“生え抜きの人間”にならねばならぬ。
それが人間を造るということだ。

照心語録より

学者であっても、
教師であっても、
公務員であっても、
職人であっても、
本物は本物らしく生活できるが、
大方は職業を名乗るできそこないが多いということであろう。

自分を見極めず、
適職に就かず、
流されるままに仕事について、
其れを天職とするまで自分に吸収しなかった者が、
此処で言う「生え抜きの人間」になりそこねた退化・歪曲・分裂してしまった人間だ。

これを学者で分かりやすく、
書と生徒の前では学者だが、
そこを離れたら学者でなくなったという面白い話にしたのだろう。

厠に立っても、
人を感化する背中を持つ学者にならねば本物ではないだろう。

もう、その人が徳の権化であるかのように、
自然に振舞えて本物。言行一致。

しかし、人間には途中から生え抜きの生き方をする事ができる。

細井平洲は学者として身を立て、
苦労して、学者として死んだ。
そういう人生だった。

ここまで言行一致の人物である。
幾らでも、良い待遇の誘いはあったが、
どこの流派にも属さず、
全てを受け容れ、学者であった。

侍でないから、褒め言葉は、
サムライだったというのは似合わない。

最後まで、真儒であったという言い方が正しいかも知れない。

彼の生き方に勇気付けられること幾多あったが、
本物の男の姿がここにある。

2009-10-12の記事を再掲載

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