歴史哲学と宗教 安岡正篤 照心語録

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歴史哲学と宗教

歴史哲学からみれば、
その時代の為政者が指導力と責任を喪失し、
民衆も不安動揺を来すと、
必ず何らかの宗教が流行する。

末法の衆生は現実を乗り切ってゆくだけの生命力・生活力がなく、
情緒的に現実を解脱させてくれるいわゆる宗教的なものを欲するからだ。

戦後の哲学・道徳の不振に比して宗教的なるものが盛行したのもこれである。

照心語録より

民衆には誤解している点がある。

民衆は国が無くても存在できるが、
国は民衆が無くては存在しない。

どんな困難な時代であっても、
自分が人間である事を捨てさえしなければ、
自治という物は為すべき人物が興す物だ。

それは、中国の帝の頽廃→戦国時代→新王室設立という過程で明かである。

安岡正篤先生の兄は、
高野山金剛峯寺第403世座主、
堀田真快さんという真言宗の大人物である。

お互いに相談し合う仲であったそうだ。

 宗教の見分け方として、
「人に欲されて成立した宗教」は怪しい。

しかし、おおよそどこの宗教組織も腐敗は進んでおり、
内部でけしからん事を企む輩は巣くう物である。

現実に、私はそれを見たことがある。

その時、宗教も人が作り出した物である以上、腐敗はするのだと実感した。

しかし、教典が腐敗したのではない。

混沌の世の中で迷う心の持ち主には、
自分の運命を信じるのではなくて、
自分を信じなさいと言いたい。

自分がしっかり現実を見据えて、
見識を広げれば、何を為すべきか見えてくるはずだから。

その努力をせずには、
「与えられた現実」と「与えられた運命」と「甘い誘い」がその人に近づいてくるだけだ。

2009-10-09の記事を再掲載

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