三つの面倒(一徹者、自尊家、律儀者) 論語より 孔子〔加地伸行 全訳注〕


老先生の教え。
古代には、人々に三つの面倒(狂・矜・愚)があった。
今はそれもなく〔なり、別のものと〕なってしまった。
昔の一徹者(狂者)は大筋を極めるところがあったが、
今のそれはただの追及屋でとりとめもない(蕩)。
昔の自尊家(矜)は角があって孤高であったが、
今のそれはただの八つ当たり(忿戻)だ。
昔の律儀者(愚)は心から愚直であったが、
今のそれはただ見せかけだけの嘘つき(詐)だ。
論語 増補版 (講談社学術文庫)
一徹者、自尊家、律儀者といった人物の気質が、自分本意に変質してきている事を孔子は洞察している。
どれも変質する前は「憎めない奴」とか「でも、筋が通っているんだよなぁ」と、心底怨まれたり軽蔑されるような人物では無い。
それが、「本来の良さ」を離れると、「嫌な存在」となってしまうのだ。
私流に言わせて頂けば「【自分らしさ】を【自分勝手】とはき違える所から人間は誤る」と解釈した。
一度決めたら譲らない頑固親父も、おっちょこちょいの口八丁手八丁も、 それがその人間の本性であれば、無理矢理変える必要は無いと思う。
「道徳教育・人間教育」とは、その時代に好まれる「定形の人間」を生産するものではあってはならないと、私は思う。
それは教育ではなく洗脳であり「思い込み(常識とされるもの)が社会規模に及んだ物」だと思う。
規範や常識が用意された世の中に身を置かないと不安を抱く人間には有り難い教育なのかも知れないが、
人間持つ本質の多様性を活かす「活学」の視点からすれば、「人間性の不活発症」となる。
どんな人間でも、その人がすべき事がこの世の中にあって、その為に生まれている。
私はそれを吉田松陰から学び、それを信じている。
ただ、その人間らしさを【自分本位】ではなく【利他】の心を持って発露させることが肝要だと思う。
仮に、人を導く必要がある時は、其の辺りをよく観察してアドバイスしてあげるべきだと思う。
これを見誤ると、彼(彼女)の人間らしさを発揮する度に、マイナスの結果に結びつくことになりかねない。
アドバイスした事を後悔するかもしれない。
狂・矜・愚の三つは、それを愛することで大きな力を発揮してくれる大事な気質だと思う。
2011/6/8に記した記事を投稿
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