六つの心得と弊害 論語より 孔子(加地 伸行氏 編)

愛すること(仁)に熱中するだけで、どうあてはめるかを覚らないと、その愛は当たっていない愚劣となる。
事を明らかにすること(知)に熱心となるだけで、そのしかたを覚らないと、議論倒れでとりとめもない(蕩)ことになる。
まごころを尽くすこと(信)にすがるだけで、その程度を覚らないと、行きすぎてたがいに被害者(賊)となってしまう。
まっすぐであること(直)を第一として、その調整を覚らないと、むやみに他者を非難する(絞)だけとなる。
勇敢であること(勇)だけを誇って、そこに大義があることを覚っていないと、秩序を乱す(乱)だけとなる。
決心の堅さ(剛)を売りものにするだけで、その本質を覚っていないと、単に目的達成第一の独りよがり(狂)となる。
論語 増補版 (講談社学術文庫)
それぞれの功と弊は、最初の文章を読めば想像する事が出来る。
だから、ここでは「覚るべきこと」を抜き出してみた。
- 「どうあてはめるかを覚らないと」
- 「そのしかたを覚らないと」
- 「その程度を覚らないと」
- 「その調整を覚らないと」
- 「そこに大義があることを覚っていないと」
- 「その本質を覚っていないと」
これらは、六つのどれに当てはめても通用する部分がある。
この「覚り」を心に留めて、様々な人間関係に当てはめていけば、
今まで足りなかった部分が見えてくるのではないだろうか。
中庸を守る為の「人間関係の蔽を防ぐ方程式」として使えそうである。
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